2008年06月07日
let it be
「なすがままに」 時間が過ぎているんかな? っちふと今朝思いました。
遠く先を見てるわけでもなく、後ろ向きに歩いてる訳でもなく、
だた前の方向にゆっくり歩いてるだけなんかな?
最近、周りの景色をみて喜ぶことを覚えたような、空の雲の動きを見て時の流れを感じたような、って過ごしている感じです。
目前の開けていく道をとぼとぼと進んでいって、あれ? この景色、昔見たよー、って独り言をいってる自分がいるのかな?
んん? いつもとちがう、って?
数日前、ルソーの「エミール」について調べごとしたせいでしょうかね、
哲学ってたまに覗くと迷宮に入るような想いをしますね、今の自分のいたいとこ突いているんかな?
<ルソーさんの格言>
嘘には二種類ある。過去に関する事実上の嘘と、未来に対する権利上の嘘である。(エミール)
男は知っていることをしゃべり、女は人に悦ばれることをしゃべる。(エミール)
女にとって束縛は逃れられない運命で、女がこの束縛から離れようとすれば、いっそうはげしい苦しみに出会う。(エミール)
子供達が父親に結びつけられているのは、自分たちを保存するのに父親を必要とする期間だけである。(社会契約論)
感謝は支払われるべき義務であるが、誰であろうとそれを期待する権利はない。
悔恨の情は、得意の折には熟睡し、失意のときには苦味を増すものである。(告白論)
自然は決して我々を欺かない。我々自身を欺くのは常に我々である。(エミール)
どんなものでも、自然という造物主の手から出るときは善であり、人間の手に渡ってからは悪となる。(エミール)
人間は自由なものとして生まれたが、いたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているような人間も、実はそれ以上の奴隷である(社会契約論)
あらゆる人間の知識のうちで最も有用でありながら、最も進んでいないものは、人間に関する知識であるように思われる。(人間不平等起源論)
我々が災難に苦しんでいるとき、思慮なく我々にうるさく迫る慰めは、我々の悲しみをいっそうはげしくするのに役立つのみである。
十歳では菓子に、二十歳では恋人に、三十歳では快楽に、四十歳では野心に、五十歳では貪欲に動かされる。人間はいつになったら叡智のみを追うようになるのであろうか。(人間不平等起源論)
などいろいろな言葉があります、だからどうだ、他人様にこうだ、っていうつもりは毛頭ございません。
私は正直いってルソーさんのことあまり好感をもってみておりません、彼自身、真剣に子育てをしたこともないのに、理論だけを記述しているからです、子育てはそれぞれのやりかたで真剣に取り組むことがベストでしょう、その中でいろんな試行錯誤の過程があって親も子供も育つのでしょう。
ただ彼自身のことは別として、残した言葉は自分の脳細胞の深い部分に響くときがあります、哲学とはそういうものなんでしょうね。
Posted by sakapa at 12:10│Comments(0)