私が起業したのは 28歳の時です。
資金 ほとんどなし。
今から想うとなんて無謀な展開でしょう、
もちろん伏線がありました、学生時代からの色んなアルバイト経験、そして大学の先輩からの就職勧誘。
今では相当メジャーな「東急ハンズ」って小売店があるんです、しかし渋谷店は開業当時、赤字続き。
そんな東急ハンズを専門に商品を卸す会社を設立するということ、それで私にお声が掛かった訳です。
当時の私は、ただただ酒が強いのと いつもの笑顔ぐらいしかとり得がない25歳の青年でした。
後で聞いたところによると、そんな人当たりの良さに 先輩は目をつけて 誘ってくれたようでした。
給料はというと、30万でどうだ、っていわれてきたのですが、儲かるまでは13万でいこうや、と言われてそのまんまずっとでした。
労働時間も9時~夜9時過ぎまでと 報酬の割によく働いたのではと思います。
で、その後すぐ先輩の会社は業績好調、私の給料は変わらず2年が過ぎ、商品展開でしばしば社長と見解の相違が起きるようになってきたのです、私なりに東急ハンズにフィットした商品を思いつき、メーカーに企画を話し、会社としてのオリジナル商品の開発プランがかなり出来たのです。 ここから話を先に進めるには社長の決裁が必要な訳でして、それを相談いたしましたところ、「確実に売れるなんてことはないだろう、売れんかったら君が全部買うのか?」との見解、その後少しは色々説明はしたのですが、らちがあかないので翌日、東急ハンズ仕入れ担当者に説明、仕入れ担当者よりお墨付きをいただいて商品を製作することになりました。
私の安月給もしかりですが 会社の薄利に少し矛盾を感じていた私は、どうやったら利幅を出せるか? そのことで製造メーカーと話した事がありました、結論は簡単なことです、量をまとめれば安くなるのです、そして、メーカーが製造する際の手間が掛からないような、かつ消費者受けするような仕様にすることで更に安くなるということがすぐ理解できました。
最初の1品は本当になんでもないものです、「やわらか野球セット」 中空のプラスチックのバットとボールのセットのオモチャです、メーカー定番は幼児向けのキャラクターシールとヘッダがついていました、定価500円の仕入れ値48% 12個単位、 ハンズへの出し値58%、利益は1個売って50円。
これをシールなし、東急ハンズのヘッダ支給で5ケース単位で納品、これで仕入れ値は定価の38%になりました、これだけで利益は倍の100円、一度企画してしまえば納品の労力は同じ、悪くない展開と思いました。
東急ハンズの購買層は若い人が多かったのもあり、これはヒットでした、2日に3ケースの割合で注文が入り、もちろん社長も喜びはすれども 文句は言いません。
他にも同じパターンでちょっとしたマイナーチェンジのよるオリジナルをいくつか仕掛け 先輩の会社は売上が急激に上がっていきました。
そうやってまた月日が経ち、そろそろ給料も上がるかな、なんて思い始めた頃、社長が私に言った言葉「坂本くん、君が頑張るから おかげでマンションのローンを繰り上げて終わらせたよ」
正直、ドン引きでした、当時、社内で営業外回りしているのはほとんど私一人でしたから「この人の下では一生、安月給で馬車馬のように働かされて終わってしまうやろな」って心の中で思いましたわー。
その後も仕事は忙しく過ぎておりましたが 先輩の会社の商品群は「オモチャ」が主でしたので私の趣味とはかなり違ってまして だんだんストレスを覚えるようになりました、東急ハンズの担当も市場のニーズが生活雑貨に移行していることを肌で感じていましたので、私の商品展開の方針と合致する部分も多かったです、
このころ渋谷にある、「マニー」さんや中野の「らむりーず」さんなんかと仲良くしていただいていろいろ情報、意見交換するようになってました。
同時に、この辺から、商品展開にたいする考え方が社長である先輩と見解を異にすることが増えて、自分自身の引き時なんかな、って考え始めました。
そんな流れで、これ以上の路線対立は先輩に迷惑をかけてしまうので、この業種から身を引き、私は故郷の高知に帰り教員採用への道を探ります、と辞職を申し出ました。
「わかった、取引先には君が退職する1週間前までは言うな」と社長に言われその通りにして、退職1週間前はずっと倉庫整理ということもあり、取引先に挨拶するチャンスもなく、会社を去ることとなったのでした。
つづく